朝起きるとやけに暑かった。
手で布団を払いのけようとして、手が止まった。
手に、毛が生えている。産毛とかいうレベルではない。
獣のそれだ。起きあがろうとすると、足もおかしい。短い。
「・・・・・・・犬?」
私は犬に変わってしまったようだった。
どう動けばいいのかもよく掴めず、ベッドから落ちた。
なんとか立ってみて、小さめのレトリーバーみたいなものか、と見当を付けた。
頭でドアを開けた。昨日トイレに起きて良かった。半開きだった。
まだ誰も起きていないようだった。時計は、五時。
どうすればいいだろう。誰に見つかっても、気付いてもらえるとは思えない。
それに、うちの家族は犬が嫌いだ。袋叩きになるかもしれない。
一つだけ、可能性のある案を思いついて、また部屋に戻った。
うまく上がらない手、というか前肢を使って、なんとか窓を開ける。
朝日が、私を照らす。毛皮が黒でなくて良かった。
勢いを付けて走り出す。四本足は、早い。
そのまま飛ぶ。隣の家の屋根に着地した。
何をしているんだろう。どうして、案外冷静なんだろう。
虫になっていたら、こうは行かないだろう。
窓を叩く。爪が軽い音を立てる。
まだ起きていないのかもしれない。窓を叩き続ける。
表を、近所のおばさんが散歩していた。犬を連れて。
ふいに、窓の向こうから「う〜ん」という声がした。
少しして、カーテンが心地よい音で開いた。
修と、目が合った。
いつも眠そうにしている修の目が、思い切り開いた。
「えっうわあsdfgyふじこlp」
後ろにのけ反って、何かにつまずいて倒れた。可愛い。
小さく吠えてみた。悪くない声だ。
修は困った顔で私を見つめて、何か小さく呟いて窓を開けた。
跨ごうとすると、抱き上げられた。大きな手だ。
「どこから来たんだよ、おまえ?」
答えることなど出来ようも無い。寂しげに啼いておいた。
小学生のときに一度入ったことがあったが、変わらず綺麗な部屋だった。
机の上は特にさっぱりしていた。本棚は一杯だ。
抱きかかえられたまま、見渡していると、修が私をぐるりと回して、見つめた。
「あまり人のプライベートを観察しないこと」
ああ、こんな修は久しぶりだ。
修と最後に話したのは、この部屋だったことを、思い出した。
修の心臓の音を感じながら、記憶を読み返す。
五年生のときだ。私が聞くと、修はあっさり受け入れて、家に上げてくれた。
おばさんがお菓子を持ってきてくれて、秋ちゃん、修と仲良くしてね、と言った。
私は、はい、と元気良く返事をした。おばさんは微笑んでドアを閉めた。
なんだか嬉しくなって、私は修に聞いた。
「修、仲良くしてね?」
修は少し赤くなって、言った。
「秋は変だから、やだ」
表情にはでなかったが、心に深い傷が入った。
いたたまれなくなって部屋を飛び出そうと思った。
しかし、おせんべいがあったので、無言で全部たいらげてから帰った。美味しかった。
それから、修とはなんとなく話せなくなった。
中学も高校も一緒だった。でも、クラスは違った。部活も。
修はずっと野球部で、私はずっと弓道部だった。
一度、集会での表彰で隣に並んだことがあったが、目を向けられなかった。
受験が近くなると、修の部屋はずっと明るいままだった。
試しにいつまで起きているか調べようと起きてみたが、四時で挫折した。
修が私を床に下ろした。視界の低さに改めて驚く。
「ちょっと早いな・・」
修は窓の向こうを眺めている。ちょっとどころではないと思うが。
しばらくそのままだった。私はベッドの匂いを嗅いだりしていた。
「・・・よし」
修が私を見た。
「散歩行くか」
何故か、散歩という言葉にうきうきして、私は吠えた。
朝の日差しは何か特別だ。命、という感じがする。
もちろんのこと、私は首輪をしていない。野放しだ。
修は私の後ろをのんびり付いてくる。他に人は見かけない。
立ち止まる。恐ろしいことに気が付いてしまった。
どうやって排泄をするのだ?いや、やり方は分かるが、修の目の前だ。
恥ずかしいどころではない。お嫁に行けなくなる。
そんなことを考えているときに限って・・来た。
「どうした?」
動かなくなった私に修が声をかける。なんとか離れなければ。
隙を見て駆け出す。曲がって、繁みに駆け込む。用を足す。
修が追いついてくるころには、なんとか平静を装うことができた。
「急になんだよ・・・走りたいのか?」
良い性格をしている。修と同じ速さで走れるとは思えなかったが、走り出す。
修はすぐに追いついて、少し前に出た。
コンクリートは硬かったが、私は構わず走った。
家の前で、修は私をちらちらと見ながら何か考えていた。
「・・・よし。ちょっとここで待ってろよ」
そう言うと、玄関の奥へ消えていった。
きちんと座って待っていると、隣の家から物音がした。
姉だ。今日は出張らしかった。
目が合ってしまった。姉は露骨に顔をしかめ、エンジンをかけた。
排気ガスが目にしみた。
修が出てくる。
「頼む、行儀よくしてろよ」
ああそうか、審判の時が来たのだな。おばさんは許してくれるだろうか。
修の後を歩く。足を拭いて、居間へ向かった。
おばさんは台所で朝食を作っていた。卵のいい匂いがする。
「母さん?」
「何、今忙しいの」
「犬飼って良い?」
「は?」
「犬、この」
修が私を指さす。おばさんがカウンターの向こうから覗き込む。
「どっから連れてきたの?」
「え・・・家の前にいたんだよ」
おばさんは手を拭きながら、私の方へ来て、しゃがんだ。
表情を見る限り、犬が嫌いではないようだ。
「・・・お父さんが帰って来るの、今度はいつだっけ」
「夏って言ってた」
修のおじさんはパイロットだったか船乗りだったか、滅多に家にいないらしい。
「じゃあ、それまでに責任持ってしつけること。世話もすること。それと」
「まだあるの?」
「今度のテストで百番以内に入ること」
「・・・わかった」
どうやら、私はなんとか命拾いしたようだ。そう思ったら、途端にお腹が空いてきた。
味噌の匂い、葱の匂い。そして、米の匂い。
食卓から、コシヒカリが香る。なまじ犬になってしまったばかりに、嗅覚が鋭い。
ただ嗅ぎながら待っているこの瞬間は、ほとんど拷問に近い。
おとなしくしようと誓ったものの、こればかりはどうしようもない。
胃が、喉を鳴らす。クゥーンと、高い声が漏れる。
「何食べさせればいいのかな」
「ドッグフードなんてないわよ」
「うーん・・・」
「とりあえず、ご飯に鰹節でもかけてあげたら?」
思っても見なかった好展開。尻尾が激しく左右に振れる。
神々しい湯気を上げながら、輝く白い粒が、私の目の前に置かれた。
「っと、その前に、おあずけ!」
さっきはそんなもの余裕だと思っていたのに、いざ食事を目の前にするとまるで修羅の道だ。
「待てだぞ、・・・えー・・フラン」
「何、フランって」おばさんが聞く。
「名前だよ。一心不乱に尻尾振ってるから」
「適当ねえ」
「いいじゃんか。・・・よし!」
私は神にも迫る速度で茶碗に飛びついた。
今日は休日だが、修は部活があるそうで、私を部屋に残して出かけた。
急に暇になったので、ベタに尻尾を追いかけてぐるぐる回ってみたりしたが、
そんなに楽しくなかった。あれをやるとき、犬は相当退屈なのだろう。
修の部屋はこざっぱりとしている。本棚は少し荒れていたが、他は全くだ。
はた、と思いついた。修は年頃の少年だ。となれば、
もちろんどこかにそういうものがあるはずだ。
という訳で机の引き出しから探す。取っ手を加えて引っ張る。
プリントや色鉛筆があるだけだ。別の引き出し。同じ。
探せるところは全て当たったが、見つからなかった。
疲れ果てて横向きに寝ころんだ。
私は何をしているのだ?
動きを止めると、頭に疑問符が溢れる。
今日は田へ行って、春に向けて備える地面の力強さをスケッチする予定だったのに。
ひょっこり顔を出した虫と戯れるのを楽しみにしていたのに。
何で犬になっているのだ。どうして修の部屋を漁っているんだ。
頭が痛くなってきて、いつの間にか眠っていた。
後ろから黒い大群が追いかけてくる。
それがなんなのかは分からないが、私は必死に走っている。
どんどん大群は追いついてきて、その先端が見えた。
蝗だ。稲を食い荒らす害虫。
足が気持ちに追いつかない。気力だけで走る。
先に何かがあうような気がして、私は走り続けた。
そうして、蝗が私を捕らえそうになった瞬間、視界が開けた。
何もない。そのまま、落下した。
思わず体を捻らせると、「わっ」という声がした。
目を開けると修がいた。横になって、私のお腹をさすっていた。
「悪い夢でも見たのか?」
修は微笑んで聞いたが、私はそれどころでは無かった。
でも、説明できるわけでもない。そのまま、体を預けた。
ゆっくり撫でる手が温かくて、また眠ってしまった。
空「あ・・雨」
修「こりゃきつくなるな。とりあえず中入るか」
空「そうしよう」
空「それで・・・本当に秋はいなくなったのか?」
修「みたいだな。なんか心当たりないか?」
空「・・・もともと口に出さない人間だからな…
でも、あまり家庭でうまくいっていなかったみたいだ」
修「そうなのか?フラン、本棚を引っ掻くな」
空「でも、それで突然いなくなるような子でもない」
修「…まあ、そうだな。フラン、机に登るのは無理だ、諦めろ」
空「秋みたいだな」
修「・・・え?」
空「あの犬。意味不明な動き」
修「ああ・・・犬ってあんなもんじゃないのか?」
空「いや・・・分からないが」
修「・・・・・(いや…まさかな)」
降り続く雨。空と修は仲良しというほどでもないので、沈黙。
ピ ン ポ ー ン
修「誰か来たな」
空「まさか秋じゃ?」
母「修ー!玲子ちゃん!」
修「津野田?」
空「ああ、さっきメールで伝えていたんだった」
玲「ちょっと!秋失踪したの!?」
修「なんだよ、大声出して」
玲「何でいるのよ、あんた」
修「いや・・・」
玲「あれ?何このわんわん、かわいー!」
空「わんわん?」
玲「あ・・・何でもないわよ!それより、探しに行った方がいいんじゃないの?」
空「そうしたいが・・・この雨ではな・・」
玲「・・・・そうね・・・」
修「津野田ってこんな優しかったっけ?」
玲「私はいつも優しいわよ」
犬「・・・(゚Д゚)」
玲「・・何見てるのよ!」
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修「雨・・止まないな」
空「あんまり静かだと悲しくなってくるんだが」
修「ああ、ごめん」
ヘルプ!あいにーどさむばでぃ〜ヘルプ!
玲「古いわね」
修「でもいいんだよ」
空「・・・秋も、心の中では叫んでいたのかもしれないな」
修「・・・・ん・・・」
犬「・・ずり・・・ずり・・・」
修「背中で転がりながら進むな」